再浮上した業務核都市構想

企業が郊外に進出して住宅地と結びつくという話は、実は役所が昔からいっていました。


国土庁は東京の都心部の過密集中問題を解決する行政的な方針として、業務核都市構想を10年くらい前から提示しています。


その構想は国が定める首都圏整備計画のなかで位置付けられています。


国土庁が行わなければならない仕事のなかに大都市圏の整備計画があります。


大都市圏というのは東京だけではなく、大阪、名古屋も入ります。


大都市圏の将来の好ましい姿を、国の計画としてつくり上げていきます。


それらの計画をそれぞれの都や県に提示して、都や県はそれを尊重して計画を立てていきます。


調整力はないけれども勧告はできます。


その計画というのは、他の建設省や運輸省などが無視できないという、それなりの一種の目に見えない法律上の拘束力をもっています。


その大都市整備計画の関東地方版が首都圏整備計画です。


そのなかに、いくつかの東京をとりまく郊外都市に都心部からのオフィスの移転を進めてゆくという、業務核都市構想がかかげられました。


資本主義勝利のつけ 6

果たして活路はないのでしょうか。


専門家は、多くの個人が歯止めのない個人主義の危険性を自覚しないかぎり解決はない、と語っています。


私有化、メディア化、投機化、買収によって互いに分断され、競争状態に置かれた諸個人の間に新しい質の連帯とコミュニケーションを生み出すことは不可能なのでしょうか?


しかし、このような連帯とコミュニケーションを探り出す以外に、資本主義のゆきづまりを打破する道はないとされています。


今日、経済学、政治学、社会学などの分野で、この問題提起に応えようとするさまざまな試みがなされています。


米国のラディカル・エコノミックス、フランスのレギュラシオン理論は、戦後の高度成長を支えたフォード主義的な連帯と妥協が崩壊したあと、それに代わる新たな連帯と社会的合意を模索しています。


しかし、この理論的営みは経済学の分野でコッタの問題提起に応えようとする一つの努力だということが出来ます。


日本の資本主義は、勝利したコーポラティズム的資本主義にもっとも適合した社会として日本を特徴づけています。


逆に言うと、日本資本主義は、資本主義のペシムスティックな未来像の最先端をいくものとされているのです。


これは傾聴に値する指摘でしょう。


資本主義勝利のつけ 5

背景には、資本主義の生誕以来、政治的権力の主要な場となってきた国民国家がみずからの権限を上流と下流に向かって譲渡しつつあるという事態が存在します。


今日、国際政治に関しては、国民国家よりもマイナーな地方的権力(自治体、住民運動)が、意思決定権の主要な場となりつつあります。


この政治の無力化と対になって進行しているのが、ナルシスティックでエゴイスティックな個人主義の蔓延です。


今日、諸個人はもはや利害の異なる社会諸集団をいかに統合して、社会的統一をうちたてるかということに関心を抱いていません。


テレビ画面でみずからの幻想的な映像とたわむれ、自己自身の身体の管理に憂き身をやつしています。


コミュニケーション・メディアの発展や社会福祉の公的・私的サービスの増大を背景にして、ナルシスティックな個人主義が人々の意識に浸透していきます。


政治家は社会福祉を最優先の政策課題とし、この個人主義に媚びを売ることしか出来ません。


イデオロギーが衰退し、貨幣が万能の力を手に入れ、社会が統合力を失って分裂していく・・・。


そこに現出するのは、暴力的な混沌状態というきわめてペシミスティックな未来像なのです。


「豊かなものと貧しきものとの闘いは続くが、この闘いを決するのはただ暴力のみである」。


・・・これがある経済専門家の言葉です。


資本主義勝利のつけ 4

・・・以上の4つの要因は、このように1970年代以降資本主義経済の進展を導いた要因です。


それと同時に、資本主義が今後活力を失っていくという専門家の未来予測の論拠にともなっているのです。


しかも、これらの要因がそれぞれ独立した現象なのではなく、道後に密接に絡み合っているのです。


そして、これらの4つの要因が資本主義の衰退を決定的にする第五の要因をもたらすのです。


政治が経済によって完全に食い尽くされるという事態がそれです。


経済-メディア-記入の三位一体的発展は、政治的権力の自立能力を大幅に狭め、政治が人々の日常生活を制御する能力をいちじるしく衰退させていくのです。


この政治的機能の衰退は、なによりも有権者の政治的無関心と選挙における投票棄権者の増大という事態のうちに端的に示されています。


これはかならずしも政治の領域が重要性を失ったということを意味するわけではありません。


しかし、従来のような代議制民主主義と政党政治が時代にそぐわないものとなり、政治家=代議士の権力が決定的に後退しつつあることは否めないでしょう。


「Uターン」現象

大都市から地方への人ロの流れを「Uターン」現象という。

いったん東京や大阪などの大都市に就学または就職した人が郷里に戻る形の労働力移動のことである。

大都市の過密や環境問題に不満を抱く人が増えているとともに、出生率の低下にともなう長男長女型世代の増加がその原因となっている。エグゼクティブトレードによると、また、地方における就業機会の増大や大都市との賃金格差の縮小もUターン現象を促している。

しかし、郷里には戻りたくとも就業の場がきわめて少ない地域も数多くあり、その場合、郷里の近くの地方都市で就職する「Jターン」現象も多くなっている。


資本主義勝利のつけ 3

テレビ画像を介したナルシスティックな諸個人の欲求充足は、人々の相互交通的コミュニケーションを逆に衰退させていきました。


メディアの勝利は、聖職者、教師、政治家の社会的機能をいちじるしく後退させるのです。


第三に、とりわけ80年代以降、金融の自由化にともない新しい金融商品や企業買収方法が開発され、金融のグローバル化と経済の投機化が進展します。


金融領域が実体経済から自立して独自な領域を形成し、資本主義を牽引しているのです。


しかし、経済のバブル化はすべての人々を投機活動にかりたて、人々の資産格差を拡大し、社会諸改装の分裂を深めました。


また、金融技術と金融手段を操作する人々の権力をいちじるしく高め、旧来の権力構造を大きく転換したのです。


第四に、30年ほど前から買収事件が急増し、豊かな諸国と貧しい諸国との間で、あるいは一国内部の権力構造の頂点から末端にいたるまでの人々の間に、買収とたかりの構造が普及していきました。


麻薬取引が横行し、闇の経済が発展します。


したがって規制緩和とともに発生した買収の急増は、資本主義の生産領域にドーピング注入を行う一方で、貨幣のために権力を乱用する慣習を定着させました。


そして、人々の道徳的な退廃を招いたのです。


また、買収による社会的不平等の拡大は、人々の社会的異議申し立てを呼び起こします。


資本主義勝利のつけ 2

5つの要因とは、民営化による公共セクターの再征服、テレビ・メディアの支配、金融と投機の支配、買収の蔓延、政治の弱体化です。


まず第一に社会主義の崩壊と同時期に進行し、資本主義の活力を引き出したのは、公共企業の民営化でした。


70年代以降、資本主義は規制緩和と指摘イニシアティブを駆動力とした成長を遂げます。


そのもとで公的機能が衰退し、政治家の公的職務が衰退します。


しかし、この動きは自由主義的ユートピア的諸活動に対する公的な制御の動きです。


市場競争の推進は、私的寡占の肥大化や環境破壊をもたらすことによって、産業政策や環境対策のための公的介入を不可欠のものとしたのです。


第二に、コミュニケーション産業・・・


とりわけテレビ・メディアの飛躍的発展によって、資本主義経済がマスメディアに媒介されるようになります。


このマスコミニュケーションの爆発的増大は、非物質的情報やサービスを取引する巨大な産業領域を切り開きます。


その結果、コミュニケーション・メディアは金融や実体経済の領域と並ぶ、資本主義の第三の領域をなすようになります。


しかし、テレビ化されたコミュニケーションが資本主義の長期的な発展を可能にするという保証はどこにもありません。


資本主義勝利のつけ

社会主義の崩壊によって、資本主義は全面的な勝利を収めました。


しかし、


「資本主義のこの勝利はあまりにも全面的であるので、ほとんどあつかましいほどである。


・・・かくも完全な勝利は、将来にそのつけを回すおそれがある」


・・・と言われていました。


社会主義という対抗勢力の崩壊によって、資本主義は他に並ぶもののない地位を手に入れ、社会システムを世界的に独占しました。


しかし、そのためにかえって資本主義は活力を失い、次第に行き詰まっていくでしょう。


・・・これが経済専門家の間でよく言われている結論です。


1970年代以降の資本主義の活力を生み出した5つの要因があります。


しかし、それは同時に資本主義を腐敗させ、衰退させる5つの要因でもあるのです。


それは今日の資本主義における「すべての状態」なのです。


魅力的なキャリアウーマン

「魅力」という点では、週刊誌が「美人課長」として大きく取上げた日本航空広報室(当時)の滝田さんなどが記憶に残っていますね。


「美人」だからといって騒ぎ立てるのは、週刊誌らしい慎みのなさですが、同時に滝田さんが「有能」であり、課長職への抜てきも当然のこととして、広く報道されたものです。


「女性であることのマイナス要素」という点では、次のようなことが考えられると思います。


基本的には「女だから困ったという記憶は、ほとんどない」という通産省日用品課長(当時)の坂本さんが、半ば笑い話として「2つだけ、あった」と語ります。


一つは、昼休み時などの外部の電話で、相手に「留守番の女の子」扱いされること。


一度、「私、課長補佐の坂本ですが」と名のったら、相手があまり恐縮したので、それ以後たいていは「留守番の女の子のふり」をしているとのこと。


もう一つは、課員から「結婚式の仲人」を頼まれたとき。


そのこと自体は、課長としてのつとめのうちと考え、主人にも協力を依頼したが、式の当日、「新郎新婦の紹介をするのは仲人夫婦のうち男の役割」という常識を守るかどうかで迷ってしまったといいます。


「あまり主人に借りをつくるのも、困りますから」と笑いながらの話でした。


今は派遣 千葉で働く派遣社員でも、いつか出世したらこのような気持ちがわかるかもしれません。

階層なき学歴社会 8

一方、女性の職業選択範囲の拡大、地位の向上、女性の能力の社会的活用において、教育は大きな役割を果してきました。


大学の入試が選別の機能をもつことは盾の両面のようにプラスとマイナスの面がありますが、少なくともこの段階では性別は問題にならないので、女性のうち特に有能な女性は大きな利益を受けます。


女性一般の能力についてまだ偏見をもっている人に対しても、一流大卒というブランドは大きな威力を発揮します。


日本の大学には教育機能よりも選別機能があることが、ここでも影響するのです。


これは大学に限ったことではありません。


国家公務員上級甲種試験にしろ司法試験にしろ、医師国家試験あるいは公認会計士試験にしろ、高度で困難な試験に合格することで、女性は男性以上に大きな実益と威信を手に入れます。


いわば彼女たちは、選別試験によって社会の荒波をくぐりぬけるにたる有力な武器を手に入れるといえます。


そのように重装備をすることで、男だ女だという性による差を超越することができるのです。


少なくとも、なんの資格も有しない男性と資格を有する男性の間の差より、女性の中で資格の有無による差の方が大きいのです。